死を与える ジャック・デリダ:著 廣瀬 浩司、林 好雄:訳 (引用文)

三 誰に与えるか (知らないでいることができること)

 秘密がつねにおののかせる。 震えさせたり、おびえさせたりするだけではない。・・・ たしかに震えは、恐怖や不安や死の恐れを表現するかもしれない。 たとえば、何かが来るのが予告された時に、前もって身震いするときなどがそうだ。
p112

たとえば沸騰する前の水は震える、、また、誘惑と呼んでおいたものは、表に現れる沸騰以前の沸騰であり、事が起きる前の目にみえる動揺のことなのだ。
p113

たいていの場合わたしたちは、わたしたちに襲いかかってくるものの起源を知らないし、それを見ることもない。だから起源は秘密のものなのだ。わたしたちはおそれをおそれ、不安によって不安にさせられ、そうしてわたしたちはおののく。
p113

未来は予想されていると同時に予測不可能なものであり、危惧され=把握されているものなのだが、まさにそれだからこそ、未来があるのだ。
p114

〈オノノカセル秘儀〉においては何がおののかせるのであろうか。それは無限の愛の贈与であり、わたしを見る神的な視線と私自身のあいだの非対称生である。
p117

私たちは、私たちのために決断を下すような神の、接近不可能な秘密を前におそれおののく。 にもかかわらず私たちには責任がある。 つまり、自由に決定を下し、勤め、みずからの生と死を引き受けることができるのだ。
p118

ハイデガーは死について、私たちの詩について、つねに「私の死」であって、誰ひとりとして私の代わりに引き受けることができない死について、auf sich nehmen 「自分の身に引き受ける」という言葉を使っていた。
p119

従順であることは、求めるものではなく、命令するものだ
p120

私たちは神と語ることも、神に対して語ることもない。人間たちと語るように、あるいは私たちの同類に対して語るようには、神と語ることはないし、神に対して語ることもない。
p120

アブラハムは秘密に引き留められている。ひとり秘密の場所に閉じ込められているために。
p124

彼は語り、また語らない。答えることなく答える。答え、また答えない。的をはずした答えをする。 秘密にしておくべき本質的なことについては何も言わないために語る。 何も言わないために語ること、これは秘密を守るためのつねに最良のテクニックである。

しかしアブラハムがイサクに答える時には、たんに何も言わないために語るだけではない。 彼はどうでもいいことではない何か、虚偽ではない何かを語る。非真実ではない何か、そして、今のところはわからないが、いずれ真偽がはっきりするであろうようなことを語るのである。
p125

誰も私の代わりに死ぬことはできないのと同じように、私の代わりに決断をすること、決断と呼ばれるものをすることはできない。 

だが口を開いてしまった瞬間、つまり言語という場に入り込んでしまった瞬間に、人は独立性を失う。
p126

語ることは私たちの心をなぐさめる、なぜならそれは[私を]普遍的なものへと「翻訳」してくれるから、とキルケゴールは記している。
p126

絶対的な責任は責任ではなく、少なくとも普遍的な責任ではないし、あるいは普遍的な意味での責任ではない。絶対的な責任は絶対的に、そして何にもまして例外的なもの、あるいは常軌を逸したものでなくてはならない。

だから、絶対的に責任のあるものになるためには、無責任でなければならないかのようだ。
p128

(信仰という単独性における神への)絶対的義務は、負債と義務の彼方、負債としての義務の彼方における信仰へと向かうような、一種の贈与と義務を含んでいるのだ。

この次元において「死を与えること」が予告される。「死を与えること」とは、人間的責任の彼方、義務という普遍概念の彼方において、絶対的な義務に応答するものなのである。
p133

もし私が憎んでいる者に死を与えるならば、それは犠牲ではない。 私は自分が愛している者を捧げなければならない。死を与えるまさにその時点、まさにその瞬間に、私は自分が愛している者を憎むようにならなければならない。
p134

逆説とは、安定させたり、確立させたり、統握(Auffassung)したり、捉えたりすることができないものであり、そして理解することのできないもの、悟性で理解したり、媒介したりすることのできないものである。
p137

倫理的義務を、義務に基づいて、尊敬しないことが義務なのだ。 ひとは倫理的に責任を持ってふるまうだけではなく、非倫理的で無責任にもふるまわなければならない。
p140

絶対的他者としての他者すなわち神は、超越的なもの、隠されたもの、秘密な者であり続けなければならず、また彼が与える愛や欲求や命令に対して、嫉妬深く執着するものであり続けなければならない。
p140

三つの宗教それぞれがこの場を自由にすることを要求し、メシア主義とイサク主義のオリジナルな歴史的・政治的解釈を求めている。イサクの犠牲の読解と解釈の伝統は、それ自体血にまみれた犠牲、焼き尽くす捧げもの(ホロコースト)の犠牲となっているのだ。イサクの犠牲は毎日のように続いている。
p145

アブラハムは何も知らないのだから、他者が知っていることを知るということではない。彼の信仰を分かち合うことでもない。信仰は絶対的な単独性の運動にとどまらなければならないからだ。
p164

私たちの信仰は安定したものではない。信仰はけっして安定したものにはならず、けっして確信になってはならないからだ。

私たちがアブラハムと分かち合うのは、分かち合われることのないもの、それについて私たちが何も知らないような秘密なのである。

秘密を分かち合うこと、それは秘密を知ったり、暴き出したりすることではなく、何か良く分からないものを分かち合うことである。

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何ものの秘密でもないような秘密、何も分かち合うことのないような分かち合いとは何なのだろうか。

死を与える (ちくま学芸文庫)

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