精神の生態学 G.ベイトソン:著 佐藤良明:訳 <引用文3>

プリミティブな芸術の様式と優美と情報

オルダス・ハクスリーは、「優美」graceの追求ということが、人間にとって中心的な問題なのだと述べている。彼の言うgraceの意味は、新約聖書におけるgraceの意味[神の恩寵]と変わらないとオルダス自身は考えていたが、しかしその説明は彼一流のものである。 ウォルト・ホイットマン同様、彼もまた動物のコミュニケーションに人間に失われた純良さ、素朴さを見いだしていた。人間の行動は、目的心や自意識から来る「あざむき」によって汚されている、おのれ自身すら人間はあざむく、その理由は動物たちがいまも持っている「優美さ」を人間が失ってしまったことにある ーー とオルダスは考えた。

 その文脈から彼は、神を人間よりむしろ動物に近い存在に見立てている。神は欺くことを知らず、心を乱すこともなければ、誤った考えを抱くこともないと。

 この失われた「優美さ」の(部分的)回復を目指すものとして、私は芸術というものを位置づけたい。その試みがある程度成功するところに、芸術家の至福があり、それが挫折に終わるところに芸術家の憤怒と苦悩がある、と。
p200

 優美の基本は統合であるという考えを、これか展開していく。何の統合かといえば、それは魂の部分間の統合ーーとりわけ、一方の極を「意識」、もう一方の極を「無意識」とする精神の多重レベル間の統合ーーである。

「優美」を得るには、情感の理reasons of heart と理知の理reasons of the reason とが統合されなくてはならない。
p201

■スタイルと意味
芸術を神話に移し替え、その神話を分析するというやり方は、「芸術とは何か」を問う作業を放棄する、見てくれのいい方法でしかないと思う。
p202

 音素の連なりでもいい、一枚の絵でもいい、一匹のカエルでも、一つの文化でもいいが、何らかの出来事または物の集合体に、とにかく何らかの方法で「切れ目」を入れることができ、かつ、そうやって分割された一方だけの知覚から、残りの部分の有様をランダムな確率より高い確率で推測することができるとき、そこには冗長性またはパターンが含まれることになる。これを、切れ目の片側にあるものが、もう一方の側にあるものについての情報を含む、あるいは意味を持つと言ってもいいだろう。

 樹木の地上に出ている部分を見て、地下にある根の存在が推測できる。このとき、上の部分が、下の部分についての情報を提供している。
p203

 わたしの発する言葉から、あなたがどんな返答をするかを、わたしは予測することができる。これは今の文脈で言えば、わたしの言葉があなたの返答についての「意味」あるいは「情報」を含んでいるということだ。
p204

 われわれは他者との関係に関する自分の見解の正しさの確認を求める。
p205

■レベルと論理階型

a -- メッセージ「雨が降っている」と雨粒の知覚との組み合わせが、それ自体、人間関係の宇宙についてのメッセージを担う。

b -- 思考の焦点をメッセージ素材の小さな単位から引き上げて、より大きな単位を捉えるとき、それまでバーバルなコード化しか見えなかったところに、イコン的なコード化が現れてくることがある。(ミミズの言語的記述が、全体として、ミミズのように伸長することがある。)

[(「ソノ ミチ ヲ シッテ イル」/わたしの心)//道]

厄介なのは、この丸括弧の中のパターン化のようすである。精神のどの部分で知っているどんな知を、どの部分が「知っている」と意識するのだろう。
p207

1. 物事を深く「知る」につれて、その知識について意識する度合が減っていくというサミュエル・バトラーの主張。(禅の修行、等)

2. ヴァン・ゴッホが独特の遠近法で描いた椅子の絵を前にして奇異な感覚に襲われるとき、われわれは無意識にとっての自然な見え方をほのかに意識するのである。

4. 無意識を、恐ろしい、苦痛に満ちた記憶が抑圧のプロセスによって押し込められた地下室ないし戸棚として考えるフロイト流の見解。
p208-209

アレゴリー」というものがあるが、これは通常の創造プロセスが逆転されたものであり、芸術の一形態と呼べるにしても、ずいぶんとぎこちないものと言わなければならない。典型的なアレゴリーでは、まず「真実と正義」というような抽象的な関係が、理性によって心のなかに抱かれる。そしてその関係が後に隠喩化され、一次過程の産物らしくめかし立てられる。 こうして抽象概念が人間の姿で登場し、神話もどきの世界で立ちふるまったりするわけだ。
広告芸術の多くも、本来の芸術とは創造過程が逆転しているという意味で、アレゴリーの仲間だと言える。
p210

熟達した芸を見たとき、われわれは「すばらしい」ことを意識するが、それがどうだから「すばらしい」のか言葉でうまく語ることはできない。
 芸術家の奇妙なジレンマに陥っていると言えそうだ。 訓練によって技能に熟達していくにつれ、自分がそれをどのように行っているのかが意識からすり落ちていく。意識の手を離すことで、技能が”身”につく。
p212

精神分裂症の患者が、分裂症的な発言を(あるいは「内からの声」に対する彼自身のコメントを)、”as if” に類する言葉で括ることができるようになったとしたら、それは社会的に認められた正気へ向けての大きな飛躍である。
p214

 単純な否定が存在しないという事実は特に重要である。この場合、動物は、言っていることの反対のことを意味しているのだという命題を伝えるために、意味していることと反対のことを言う状況に追いやられるわけだ。
p215

 しかし、無意識レベルに沈めた方が得な知もあれば、表面に残しておかなくてはならない知もある。総体的に言って、外界の変化にかかわらず真であり続ける知は沈めてしまって構わないが、場に応じて変えていかなくてはならない行動の制御権は確保しておかなければならない。
p216

■芸術がもたらす治癒

 孤立した意識は、つねに憎しみへ傾く。他のものは消してしまった方が便利だという”常識”がそうさせるのではない。 その背後には、回路の弧しか見られない人間は、計算づくの目的的行為が裏目に出て自分を苦しめるという状況に出会うとき、驚きとともに怒りを禁じえないという、より深い理由にあるのだ。

循環性の事実(DDT-虫-鳥の関係)を認知することも<智>の営みのひとつである。

芸術がわたしの言う<智>の維持に積極的に寄与しているのだとすれば、 ーー つまり、生に対するあまりに目的的な見方をよりシステミックな方向へ治癒していくことに関わっているならば ーー、 われわれが問うべきなのはこういう問いである。「この芸術作品を創る、あるいは観ることで、<智>に向け