脳のなかの身体—認知運動療法の挑戦  宮本 省三 ;著 引用文

 序章 怪物との闘い

怪物と闘う前に、セラピスト同士のイデオロギーと闘わなければならないという空虚な状況や時間の無駄が続くかぎり、リハビリテーションに未来はない。それは今という時代への憂鬱感にほかならない。
p16

ペルフェッティは「患者さんに守ってもらいたいささやかな規則」という指針を提言している。

身体を動かすだけでは不十分です。 感じるために動くことが必要です。運動というのは、自分自身あるいは外部世界を認知するためのものです。

あなたは動きを「感じる」練習をして下さい。自分の運動や対象物との接触に、いつも最大限の注意を払って下さい。目を閉じて身体を動かしてみるのもひとつの方法です。

そして対象物との接触では、とくに重量を認識する努力をしてください。 あなたの身体やその部位にも重量があります。座っている状態で、あるいは立っている状態で、自分の腕、自分の脚、自分の体幹、自分の身体全体の重量を感じる練習をしてみてください。 たとえば重量が身体の左側と右側に対称に配分されているかどうか感じてみて下さい。
p17


 第一章 脳損傷により身体に何が生じるのか

 2 感覚麻痺 ー 世界を感じ取れない手足
体性感覚 体性感覚は「表在感覚」と「深部感覚」とに大別されている。
・表在感覚… 触覚(触感)、圧覚(圧力感)、温度覚(温冷感)、痛覚(痛み)
・深部感覚… 運動覚(関節角度の位置と動く方向や速度感)、筋感覚(筋肉の収縮感と重さ)

表在感覚  たとえば、人差し指の先端は「第二の目」と呼ばれ、ミリ単位の差異を完璧に識別できるが、背中の皮膚は数センチの差異を識別できないほど感度の違いがある。

深部感覚  関節や靱帯には物理的刺激に反応する機械受容器(メカノレセプター)と呼ばれる深部感覚受容器が多数存在する。これが身体感覚の基盤をつくる。

深部感覚は身体の「動く感覚」と「力の感覚」であるといえる。さらに、動く感覚は、「位置覚」と「運動覚」に、力の感覚は「抵抗感覚」と「重量覚」に分類できる。
p34-37

感覚と運動は分離できない
 認知心理学者のギブソンは、手の感覚を「受動的触覚」と「能動的触覚」に区分している。そして、「私たちは動くために知覚するが、知覚するためにはまた動かなければならない」と述べている。
p39

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 3 身体感覚の変質

空間モザイク
 目を閉じて、自分の身体を感じようとするとき、それが目に「見える身体」の姿をしていると感じるのは錯覚である。 体性感覚で感じる「見えない身体」は人間の姿をしていない。…三次元空間で動く身体の動きは一つの視点(座標原点)からでは認識できないのである。
 リハビリテーション医のペルフェッティは、こうした身体空間は唯一無二の絶対空間ではなくモザイクのようなものとして脳内で組織化されていると主張している。
p43

 4 身体の高次脳機能障害 ー 所有感覚と主体感覚の異常

モリニュクス問題
 生まれながら盲人で今は成人した人が、同じ金属でほぼ同じ大きさの立方体と球体区別を触覚によって教えられ、それぞれに触れたときに、どちらが立方体で、どちらが球体かを言えるとする。 そこで、その立方体と球体をテーブルの上に置き、その盲人が見えるようにされたと想定しよう。彼は今、それらを触れずに視覚によって、どちらが立方体でどちらが球体かを区別し告げることができるだろうか?

これが「モリニュクス問題」である。ロックが『人間知性論』という本で明らかにした回答は「否」であった。立方体や球体は触覚には存在するが、視覚的には存在しないという解釈である。
p64-65

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第二章 ホムンクルス脳科学

1 脳の表象
脳は「身体、物語、人生」をつくり出す

認知神経学者のダマジオは『デカルトの誤り※』という本で「身体をもち心や脳のない生物(たとえば大腸菌のようなバクテリア)は存在するが、心や脳をもち身体のない生物は存在しない」と反論している。  ※「我思う、ゆえに我あり
p75

 ダマジオによれば、「心をもつ」ということは、その有機体が「イメージになりうる、思考と呼ばれる認知プロセスの中で操作しうる、そして、将来の予測、計画、次なる活動の選択を手助けすることで行動に影響を及ぼしうる、そんな脳の神経表象を形成すること」を意味する。
p75

 脳が世界を表象するという奇跡的な機能をもつ認知器官であることは確かであろう。さらに認知神経学者のヴァレラは「認知とは世界の表象ではなく、世界を生み出すことである」とも言っている。
p76

ペルフェッティは、脳の表象を「あるものの代わりにある何か」と定義している。
p78


「身体化された心」と「ニューロン人間」
「自分の身体を、脳がどのように環境との関係性において認知しているかによって、世界の表象が変わってくる」と捉えるべきである。
p84

 心的イメージ
 脳は心的イメージを生み出す器官であり、世界は意味に満たされている。だとすれば、脳のなかの身体部位再現もまた、他の心的イメージと比喩的につながった複数の意味として「神経表象(ニュートラル・リプレゼンテーション)」されているはずである。つまり、脳のなかの身体は、複数の「心的イメージ」として存在しているのである。
p105

 身体イメージと言語
脳には身体イメージと言語間とで共有するメタファーの概念構造があり、それは左側頭頂葉(身体イメージ)ー角回(メタファー言語)ー前頭葉連合野(思考)のルートを神経基盤にしていると考えられる。 脳のなかには運動感覚的、視覚的、言語的な身体イメージがあり、人間の身体のメタファーとして世界を認識しているのである。
p112

 筋感覚イメージと視覚イメージ
1990年にローランドは、実際には手指に末梢刺激が加えられていないにもかかわらず、手指に触覚刺激が与えられると予期して注意を集中させると、感覚野の脳血流量の増加が生じることを発見した。 触れられることを予期して唇に注意を集中しているときにも同様の現象を見いだしている。
p115

 あらゆる行為には運動イメージが先行する
運動学習過程は、行為の失敗や成功よりも、期待される運動感覚の想起の仕方が適切であるかどうかによって効果が変わってくる。学習の初期段階では「こういうふうに筋感覚イメージをすれば、こういう運動感覚が期待できる」という運動イメージの想起がきわめて重要である。
p121