千のプラトー シューマンまとめ

10 強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること……

だからわれわれは、二つのプランを、二つの抽象的な極として対立させなければならない。たとえば、音の形態とその発展に基礎を置く西洋音楽の超越的組織プランに、速さと遅さ、運動と静止からなる東洋音楽の内在的な存立平面(プラン)を対置することが必要になるのである。しかし具体的に考えてみるなら、西洋音楽の生成変化全体が、さらには音楽一般の生成変化全体が、最小限の音の形態を、また最小限の和声と旋律の機能すらともない、それらを通じて速さと遅さが伝えられ、この速さと遅さがそれらを最小限に切り詰めていくともいえるのだ。ベートーベンは、3つか4つの音からなる比較的貧しい主題によって、実に驚くべき多声的な豊かさを作り上げているではないか。つまり形態の連続的発展に裏打ちされていながら、逆に形態の解消(つまり逆行)と一体をなす物質的増殖があるということだ。  シューマンの天分は、ただひたすら速さと遅さの関係を求めて形態を発展させ、物質的にも情念的にもそれによって形態に作用をおよぼす試みとして、おそらく最も驚くべき実例だろう。
p.311


音のブロックはインテルメッツォ[間奏曲]である。つまり音楽的組織をすりぬけ、なおさら強度の音を放つ器官なき身体、あるいは反-記憶なのである。「シューマン的身体は一箇所にとどまることがない。(…)インテルメッツォは全作品と一体化している。(…)極言するなら、インテルメッツォしかないのだ。(…)シューマン的身体には分岐しかない。この身体はみずからを構築していくのではなく、ただ間奏曲(休止)を積み重ね、不断の分岐を続けるのだ。(…)シューマン的鼓動は、狂乱しながらもなお、コードをそなえている。そして鼓動を刻む音の狂乱が一般には見過ごされがちなのは、一見したところ、この狂乱が穏当な言語の限界内に収まっているからである。(…)調性には、矛盾し、しかも共存しうる二つの面があると想定してみよう。一方にはスクリーンが、つまり既知の組織にしたがって身体を分節する言語がありながら、しかしもう一方では、矛盾したことに調性が、別の水準で馴致すべきはずの鼓動に対して、その巧みなしもべとなるのだ。」Roland Barthes, 《Rasch》, 邦訳『第三の意味ーー映像と演劇と音楽と』みすず書房

p.341-342

千のプラトー―資本主義と分裂症

千のプラトー―資本主義と分裂症

http://www.suigyu.com/hondana/schumann01.html

芸術の領域でも統合の過程はすすむだろう。これまでのように、あらゆる傾向をまぜあわせて中性化し、批判を無効にするだけでは充分ではない。そらぞらしいことばや映像や音の洪水にまぎれて沈黙のうちにコトをすすめるという日和見主義では、拡張主義や文化統制の実体をおおうことがむつかしくなっている。積極的に支配のことばを打ちだし、批判を排除しないまでも周辺の安全地帯に誘導する操作が必要な時期だ。この文化統制は、あからさまな形をとることなく進行するだろう。軍国主義下の翼賛体制のように強制されることもなく、自覚さえなしに、みんなが転向するのだ。

音楽の領域でもそのきざしはあらわれはじめた。作曲者たちを支配する明るい無気力、演奏会場の官僚主義的管理、飼いならされ、しつけられた聴衆、消費の周期ははやくなる。だれもが作曲家、演奏家、聴衆のきめられた役割のなかで、予期される以上でも以下でもない演技をつづける。羊たちの背をなでる生ぬるい風の上に、かすかに灰色の雲がひろがっていく。