差異と反復 ジル・ドゥルーズ:著 

【概念】(広辞苑
〜事物の本質をとらえる思考の形式。事物の本質的な特徴と、それらの連関が概念の内容(内包)。 概念は同一本質を持つ一定範囲の事物(外延)に適用されるから一般性をもつ。 たとえば人という概念の内包は人の人としての特徴(理性的特徴あるいは社会的動物など)であり、外延はあらゆる人々である。 しかし、個体(例えばソクラテス)をとらえる概念(個体概念・単独概念)もある。 概念は言語に表現され、その意味として存在する。 概念の成立については哲学上いろいろの見解があって、経験される多くの事物に共通の内容を取り出し(抽象)、個々の事物にのみ属する偶然的な性質を捨てる(捨象)ことによるとするのが通常の見解で、これに対立するものが経験から独立した概念(先天的概念)を認める立場。


○はじめに

まさに知らないことにおいてこそ、かならずや言うべきことがあるように思える。ひとは、おのれの知の尖端でしか書かない、すなわちわたしたちの知とわたしたちの無知とを分かちながら、しかもその知とその無知を互いに交わらせるような極限的な尖端でしか書かないのだ。
p16


○序論 差異と反復

交換が一般性の指標だとすれば、盗みと贈与が反復の指標である。したがって、反復と一般性とのあいだには、経済的な差異があることになる。

反復すること、それは行動することである。ただし、類似物も等価物もない何かユニークで特異なものに対して行動することである。
p19

わたしたちは、一個の芸術作品を概念なき特異性として反復するのであって、ひとつの詩が暗誦され「心で覚えられ」なければならないというのは偶然ではないのだ。頭脳は交換の器官であるが、心は反復を愛する器官である。
p20


4 反復を、習慣に属するもろもろの一般的なものに対置するだけでなく、記憶に属するもろもろの個別的なものにも対置すること。というのも、そとから観照された反復から、首尾よく何か新しいものを「引き抜く」ことができるのは、おそらく習慣であるからだ。習慣においては、わたしたちは、観照する微小な《自我》がわたしたちのうちに存在するということを条件としてはじめて、行動するのである。
p.28

ワーグナーは、わたしたちを舞踏させるかわりに、ぬかるみに足をとられるようにまた泳ぐように仕向け、こうしてわたしたちに一種の水上劇をつくってくれるのである。

演劇、それは現実的運動である。そして演劇は、おのれが利用する全ての芸術から、現実的運動を引き出す。
p30-31

概念の内包に対するあらゆる論理的限定は、当の概念に、1より大きな、そして権利上は無限な外延を与え、したがって、現存するいかなる個物もココとイマにおいてその概念に対応することはできないという意味での一般性を与える。(内包と外延の反比例の規則)。

そのようなわけで、概念における差異としての差異の原理は、諸類似の覚知に対立するどころか、反対に、その覚知に最大限の可能な戯れ(jeu)を許すのである。 なぞなぞ遊びの視点からだけでも、「どんな差異があるか」という問いは、つねに「どんな類似があるか」という問いに変換することができる。
p34-35

カントの言うところでは、概念の中にどれほど進んでいったとしても、なしうるであろうことは、いつでも、反復すること、すなわち、いくつかの、少なくとも二つの〔同じ〕ものを、一方は左として他方は右として、一方はより多いものとして他方はより少ないものとして、一方は肯定的なものとして他方は否定的なものとして、概念に対応させることである。

《自然》とは、自己自身に対立する疎外された〔外化された〕精神、疎外された概念であると言われているのだ。~~ 《自然》はなぜ反復するのかという問いには、自然は、「部分の外なる部分」「瞬間的精神」であるからだと答えることができる。

精神は、記憶をもつからこそ、あるいは習慣をつけるからこそ、一般に諸概念を形成することができるのであり、おのれが観照する反復から、なにか新しいものを引き抜くことができ、なにか新しいものを抜き取ることができるのだ。
p37

記憶に欠けているものは、想起であり、あるいはむしろ徹底操作である。


ひとは、おのれの過去を追想することが少ないほど、また、それを覚えているという意識が少ないほど、いっそうおのれを反復する ー 反復しないとめには、追想せよ、追想を徹底操作せよ、というわけだ。
p38