悦ばしき知識 著:F.ニーチェ 訳:信太正三 〈引用文〉

生 ー われわれにとってそれは、われわれが在るところの一切を、不断に光と炎に変えること、にほかならぬ ー われわれが出会うところのいっさいをそうすることだ、われわれはそれよりほかの手だてをまったく知らない。
p13

もしわれわれ快癒者がいやしくも一個の芸術をなお必要とすれば、それは「別個の」芸術なのだ ー 雲もない天高く燃え立つ白光の炎のように、嘲弄的な、軽快な、翻転する、神的に天衣無縫な、神技のように精妙な芸術なのだ! 何よりも、芸術家のための、芸術家だけのための芸術なのだ!

なにもかにもを裸にして見ようなどとしないこと、あらゆるものの間近にいようなどとしないこと、何もかにもを理解し「知ろう」などとしないこと、こうしたことは今日われわれには礼節の問題と思われる。「神様がどこででも御覧になっていらっしゃるって本当なの?」と幼い少女が母親にたずねた、 ーー 「でもわたし、そんなのひどいと思うわ」
p17

「たわむれ、たばかり、意趣ばらし」

 光を愛でる者に
目と心を倦ませたくないとなら、
影のなかに太陽を追いかけろ!

 解釈
私が解釈するとき、自分をそのなかへ挿しこむーー
だから、私は自分では自分の解釈者となれない。
が、一節におのれ独りの道を攀じる者、
その者が私の姿をも明るい光にひき上げる。
p30

 隣人
隣人が近くいるのは好まない、
高いところと遠いところへいってくれ!
でなければどうして彼が私の星なぞになれよう?

 覆面の聖者
お前の幸福がわれわれを圧迫しないようにと、
お前は身を包んだ 悪魔の妖術で、
悪魔の機智で、悪魔の衣装で。
だが詮無いこと! お前の眼つきからは
聖者の面影がのぞいてみえる!
p34-35


 第一書

あらゆる時代の善人とは、古い思想の土を掘り起こし、それで収穫をあげる人間であり、精神の土百姓である。しかしついにはあらゆる土地が利用し尽くされる、かくてくりかえし悪の犂頭が到来しなければならなくなる。 ー こんにちでは、とくにイギリスで名声嘖嘖たる道徳の根本的謬説があらわれている。それによると「善」と「悪」という判断は、「目的に適う」と「目的に適わない」ということについての諸経験の蓄積の結果である。それによれば、善と呼ばれるものは種族を維持するもののことであるし、悪と称されるものは種族に有害なもののことである。だが実際には、〜 違うのはそれらの機能の点だけである。
p65

意識。 ・・・ 意識性は、有機体の最後の、最も遅れた発展であり、したがってまたその表面の最も未熟な、最も無力な部分である。 

人間は意識性をすでに所有していると信じたため、それを手に入れるための努力をあまりにしなかった ーー 知を摂取同化し、これを本能化するということは、現在なおまったく新しい・いまになって漸くぼんやり人間の眼に映ってきた・まだはっきりとは認識されえない課題である。
p73-74

 学問の目標について。 ーー なんだって? 学問の究極の目標は、人間にできるだけ多くの快楽とできるだけ少ない不快をつくりだしてやることだって? ところで、もし快と不快とが一本の綱でつながれていて、できるだけ多くの一方のものを持とうと欲する者は、またできるだけ多くの他方のものを持たざるをえないとしたら、どうか?