差異と反復 ジル・ドゥルーズ:著

〈韻律[拍子、構成単位]-反復〉は、時間の規則的な分割であり、同一的な諸要素の等時的な回帰である。しかし、一定の持続は、〈強さアクセント〉によって規定されるのでなければ、また諸強度によって支配されるのでなければ、存在しない。 諸々のアクセントは等間隔で再生されると言ってしまうなら、アクセントの機能について誤解することになるだろう。 逆に、強さのつまり強度的な諸価値[アクセント]は、韻律的に等しいいくつかの持続つまり空間の中に、いくつかの不等性、通約不可能性を創造するように作用するのである。 それらの価値は、ひとつのポリリズムをつねに示す複数の特別な点[特異点]、つまり特権的な瞬間を創造する。 そこでもまた、不等なものが、もっとも定立的なものである。

韻律は、ひとつのリズムの、そして諸リズムの関係=比の外被にすぎない。 不等性の点の、屈曲の点のリズム的出来事の繰り返しは、同質的な通常の要素の再生よりもずっと深いものである。 そうであればこそ、わたしたちは、いたるところで、〈韻律ー反復〉と、〈リズムー反復〉を、前者は後者の抽象的な仮象あるいは効果に過ぎないがゆえに区別しなければならないのである。
p46-47

わたしたちは、「私と同じようにやれ」と言う者からは、何も学ぶことはない。 わたしたちにとっての唯一の教師は、わたしたちに対して「私と共にやりなさい」と言う者であり、この教師は、わたしたちに、再生すべき所作を提示するかわりに、異質なもののなかで展開するべきいくつかのしるしsigneを発することのできる者なのである。 言い換えるなら、観念ー運動性は存在せず、感覚ー運動性が存在するということだ。  身体が、おのれのもろもろの特別な点に共役的に関係づけるとき、もはや《同じ》ものの反復ではなく、かえって《他の》ものを含む反復の、そして、波から所作への、所作から波への差異を含む反復の、しかも、そのように[特別な点によって]構成された反復空間のなかにその差異を運搬する反復の原理を、身体が打ち立てるのである。
p49