ドゥルーズ=ガタリ:著 千のプラトー (引用文)

1947年11月28日 《いかにして器官なき身体を獲得するか》

 とにかく、きみたちはそれを一つ(あるいはいくつか)もっている。 それはあらかじめ存在しているからでも、出来上がっているものとして与えられているからでもない、ーー見方によってはあらかじめ存在するのだがーーとにかく、きみたちはそれを作り出すわけであり、それを作り出すことなしには、欲望することなど不可能なのだ。ーーそしてそれは、きみたちを待っている。
p173

それこそ生死にかかわる問題、青年と老年、悲しみと喜びの問題なのだ。すべてはここにかかっている。
p174

器官なき身体(Corps sans Organes 以下CsO)とは、あらゆるものを取り払ってしまった後に、まだ残っているもののことだ。 そしてわれわれが取り払ってしまうものは、まさにこの幻想、つまり「意味性と主体化の集合」なのだ。
p175

  ■存立平面イメージ(中身のない卵の殻)

CsOは空間の中に存在するものでもなく、一定の度合をもって空間を占める物質なのだ。 この度合は、生み出された強度に対応する。 その強力な、形をもたない、地層化されることのない物質、強度の母体、ゼロに等しい強度であり、しかもこのゼロに、少しも否定的なものは含まれていない。 否定的な強度、相反する強度など存在しないのだ。 物質はエネルギーに等しい。
p177

北へと向きながら、僧侶は唱えた。欲望とは欠如である(欲望が、その欲するものを欠いていないはずがない)。

<悦楽>は不可能である。 しかし、不可能な悦楽は、欲望の中に刻み込まれている。なぜなら<理想>とはこうしたもの、まさに不可能の中にあり、「生とは歓びを欠いていること」なのだ。
p178

快楽は、自分自身をはみ出してしまうような欲望の過程において、「自己を取り戻す」ための唯一の方法なのだ。快楽は最も人工的なものでも、再領土化である。
p180


われわれはしだいに、CsOは少しも器官の反対物ではないことに気がついている。 その敵は器官ではない。有機体こそが敵なのだ。 CsOは器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。・・・「身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要とはしない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。」
p182

今ならこう言うことができる。<われわれ>とはCsOである。 有機体、意味作用、主体を構成するこれらの沖積土、沈殿、褶曲、転倒は、CsOの上に、つまりこの氷河のような現実の上に形成されるのだ。・・・ CsOは叫ぶ。おれは有機体を強いられた。不当にもおれは折り畳まれてしまった。おれの体は盗まれた。 神の裁きはCsOをその内在性からはぎとり、これに有機体、意味作用、主体をでっちあげる。

きみは意味するもの(シニフィアン)であり、意味されるもの(シニフィエ)、解釈者であり、解釈されるものでなければならない。ーーさもなければ、きみは変質者に過ぎない。

CsOは卵である。卵はしかし退行を示すものではない。それどころか、卵はまさに現在であり、人はいつも卵を、自分の実験の場として、結合された環境としてかかえている。 卵は純粋な強度の場であり、内包的空間であって、外延的延長ではない。生産の原理としての強度ゼロである。

CsOは、大人、子供、母親の厳密な同時性そのものである。 それらの密度の、あるいは比較された強度の地図であり、またこの地図の上のあらゆる変化そのものである。
p188

結局、麻薬を使わないでトリップすること。ヘンリー・ミラーの実験のように、ただの水で酔っぱらうこと。それとも、さまざまな実体が現実に移動し合うこと、あらゆるCsOが一つの強度的連続をなすことが肝心なのだろうか。たぶんどれも可能にちがいない。
p190