音楽の反方法論序説:高橋悠治

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人間を支配する中央機関としてのコンピュータではなく、
記憶を操作する補助装置としてのコンピュータ、
個人と対話するだけでなく、
標準化されているからいたるところに分散しつつ、
個人の間に交信可能な関係の網を織りなしていく
コミュニケーションの媒体としてのコンピュータがここにある。

ある構造を創ったらすぐに、それをあいまいにすることを考え、
一つの規則があれば、かならずその例外をどこかに表示する配慮は、
アジアの多様な伝統に共通している。

混沌から出発し、わずかな差異を感じとり、仮設の足場を築いては崩しながら、
音色の容器としての音楽を織りあげていくことができるはずだ。

文明がある方向に発展していくこと自体が死の徴候となることもある。
過去にはローマ、クメール、アステカなど、
うまくいったために滅びた文明や、
それ自体の神話に絡みつかれて無気力に立ち枯れた文明もあった。

テレポーテーションやワープは SF だが、
テレプレゼンスは 3D 映画とそんなに変らない。
仮想現実は超現実ではなく、
このみすぼらしい世界、ほとんど無為の日々からはどうしても離陸できないのだ。
ただ映画館には外があるが、
脳内部にひきこもった人間にはもう外部は存在しないと、
この脳自身は考えることができる。



人間が受動的な感覚器であり、
忘却という微量放電をともなう欠陥情報処理機であるとする立場と
世界とは暗い頭蓋内に閉じ込められた自我が
神経路からのデータを分析して作り上げる幻覚であるという思想とは、
正反対のように見えても、
遮断された感覚を刺激してつくる疑似現実を追求するという、歴史的役割を
ひとしく担っている。


ことばの触角がすすむ先をそっとたしかめながらすすんでくる半歩前にいるように。
考えずに。
考えることはふりかえること。

何度失敗し何度やりなおしても機械が記録したものは
はじまりの日のかがやきをもっている。
そこには時間がない。
ひとつを記録することはそのほかのものをすべて忘れること。
ひとつを選ぶことはほかのすべての可能性をあらかじめ取り除いてはじめて可能になる。
それも
最後に選ばれたもの、一番あたらしいものだけが最初からそこにあったかのように。
それも
次にくるもの、もっとあたらしいものにいつでも取り替えられるかたちで。
この記録には記憶がない。

息はことばの上にたちのぼる旗。
時間の波となって打ちよせる風の馬。

    • -

先生が言う。
さしだす手があり、うけとめる手がある。
手から手へとつたわるものがある。
それだけではない。そこには時間があり、
羽と羽をかさね、または羽をくりかえしてうごかし
足先をすすめるのだ。
口をとじてふくらませ、両腕を下からささえて、
胸からのぼってくるものを声に解放する。


ひとつの話をはじめからはなしてもいい。
おわりからはなしてもいい。
建物のまわりを歩くこともできるし、
なかに入ることもできる。
庭の小径のように
そのなかを気ままに歩きまわれる
音楽もある。
胸からのぼってくるものを声に解放する。
だが結果を修正しようとしたり、手順を変えようとすると、機械は抵抗するように思われる。


時間認識の様式それぞれは人間が世界に打ち込む楔。
混沌の闇から身をまもる光の矢。
だがそれは世界をつなぎとめるだけではなく、
自分の身にも刺さってくるとげ。

くりかえされるのは情報ではないだろう。
知識でもないだろう。意味でもない。
それは音でもないのかもしれない。
くりかえされるのは指のうごき、声のゆらぎ。
ひとつの身体からほかの身体に写されながら。

近代以後、表面的には状況は逆転したかもしれない。
音楽は記号、意識的な方法、さらにシステムによってつくられ、
様式の変化も意識的に、急激に起こる。
(これは、いわゆる芸術音楽より
大衆音楽の分野でのほうが徹底しているように見える。)

*ネコが爪をといだり、ひっかくのは
意識を介入させない自動的な反応のように見える。
ネコをある姿勢に追いこむと、
突然爪があらわれ、脚がすばやくうごく。
それはネコにとっても予測できなかったこと
のように見える。

★手がさきにあり、
意識はあとから
必要なだけつくりだされる。

★目的、意味、名などは
うごきの後にあらわれ、
その増幅装置として機能するのではないだろうか。
それらがつくりだすイメージは
うごきをやりやすくするが、
それらの側からはじめては、
うごきをつくりだすことはできない。

何かを指し示すということが、同時に
何かを隠すことでもある、
そういうことばのありかたを、
ワープロは理解できるだろうか。

印刷術は、書くことから読むことへのアクセントの置き換えだった。
ワープロは、書くことも読むやりかたでやろうとする。
書いていると思うのは錯覚なのだ。
書けるもののすべては、すでに書かれている。

ワープロのもうひとつの問題点は、
ごく短いものは別だが、
文章の全体が見えないことだ。
一枚の紙は二次元空間だが、
紙の束は、三次元空間のなかにある。
紙の上に書いたものは、全体を見わたすか、
めくって概略を見通すことができる。
ディスプレイは二次元以上にはならないし、
一度に見える範囲もせまい。
スクロールという手もあるが、
あれは巻紙とおなじで、
結局、紙からは次元も低くなり、退行したということになる。
その上で書いていれば、
文章だけでなく、思考も線的になる。


 閑話休題 知の枷

浅田彰の『「歴史の終わり」と世紀末の世界』は
11 人の知識人との対話集だが、
これを読んで奇妙に思ったことをいくつか。

自分たちではなく「あの連中」が
世界について考えることは許せない、
なぜなら世界 (ことば) はこちら側にあり、
ヨーロッパ標準時で進んでいるのだから、
というようにしかきこえない。
多元的な時間の出会う場としての世界史は
SF にすぎないとでも思っているのだろうか。

フランスの理論がアメリカでは大学共同体の「学術」になり、
それがめぐりめぐって日本では
疑似孤立群の世界早解り談義になるのか。
この群れは、一元的普遍に世界をとりこんだあげく
外部を失って自己崩壊するヨーロッパ的知の
貧しいコピーでもいいから、「世界」の内側に席を確保したい、
という願望から、
知的三極構造のなかの日本を忠実に演じているのか。
 
★★★文明内部での文明批判は、じつは
この恐怖感を覆い隠すために費やされていることば
ではないだろうか。


    • -

響きは音符でもなく、周波数でもなく、
波形でもなく、粒子でもない。
世界のなかにあるものではなく、世界の外にあるものでもない。
響きは炎のように生まれ、水のように流れ、
虹のように空中に消える。
それは幻のようにとらえがたく、夢のように境界がさだかでなく、
影のように、覗きこんでも何も見えない。

おおくの伝統音楽で学習手段としてつかわれる口唱歌
口三味線、口ガムラン、はそうした意識を反映している。
この意識は、音のまわりの微細な空間を見ることによって、
時間の枠も崩していく。
かたちと数はこうして、ひらかれた流れの
直接体験のなかに解き放たれる。


音楽の反方法論序説 14
手袋のなかに手はあるのか

ことばやイメージや概念、
あるいは記号から音楽をつくるのではなく、
音を楽器の上でつくりだす手のうごきからはじめるのは、
手袋から手をつくるのではなく、
手にあわせて手袋をつくるのとおなじことだ。
そこには作曲者も作品もなく、
思考や感情も、冷えたミルクの表面にできる薄膜、
流れるエネルギーの表面に漂う仮の凝結にすぎない。
ところで、
一連の手のうごきを極端におそくし、
注意をプロセスの細部に向けると、
指先のわずかなうごきは、全身をつかっての大きなうごきの、
表面に見える尖端でしかないことがわかる。
外側のうごきが小さくなればなるほど、
内側のうごきが激しくなる。では、
手自体も内側をなぞっている手袋にすぎないのだ。
さらには、内側のうごきでさえ、
流れのひとつのあらわれにすぎないと感じられる。
流れはどこにあるのか。
直接見ようとしても、それは空間全体に拡散している。
あらわれはたしかにあるが、
あらわれているものはどこにもない。

フランス哲学とは、ドイツから輸入され、舌の回転数だけが加速されたものだった。
フランス美術は、貧しいスペイン人やロシア人が
さらに貧しいアラブ人やアフリカ人の文化からつくりあげたものだった。
フランス音楽はほとんど存在しない。
パリに亡命した外国人の音楽でなければ、
そのどれかをとって官僚化したものだ。
フランスではだれもが法王になりたがる。
反対派でさえ、自前のアカデミーをもちたがる。
ブルトンアラゴンサルトルラカンブーレーズ、等々。



楽器と呼ばれているもの、それは独立した存在ではない。
『八千頌般若経』が言うように、
「木の胴があり、皮があり、絃があり、棹があり、駒があり、撥があり」
これらがあるから人の手がかかわることができる。
それらをつくりだしたのも人の手であり、
つくられたそれらのあいだの関係を定めたのも人の手であり、
人の手はいままたそれらにかかわって、
そのかかわりが音と呼ばれ、
音をつくりだす運動の全体が音楽と呼ばれることになる。
音楽がこうして生まれたとき、楽器は楽器となる。

★どんな音でもよいわけではない。
どんな音楽でもよいわけではない。
それ自身で固定され、他のどんな音の影も映さない音、
沈黙を排除する音は、うつくしくない。
固定され、何度でも繰り返され、
音楽でないもの、それを生活と呼ぼうか、
それと切り離され、対立する音楽、
その反対に、生活のなかに沈んでしまい、
境界をつくることのない音楽は、うつくしくない。
音楽がうつくしいと感じられるとき、
そこに、たくみな技がはたらいている。

★★
ここに一つの技法がある。
「音の現われる前、音の消えた後を聴く。二つの音の間を感じる。
聞こえるように入り、それから音の微細な身体を意識する。
音の輪は、回りながら
ピッチ、装飾、リズム、テンポ、音数、音色、手法が自然にゆらめき、浮動する。漂う音の形を繋ぎあわせる」

これは、音楽家がはじまりのない時からいつもおこなってきたことでもあり、
同時に技法としていまだ意識されたことのなかった技法でもある。
この技法は音楽をつくりあげるというよりは、
いまだ存在していなかった身体をつくりあげるためのものだ。


楽器を操る手を音符を書く手に置き換えて、
書く速度で音をつくっていくこともできる。
ネーデルランドの作曲家がミサを書いたときのように、
一つの声を最初から最後まで書き、
はじめに戻って次の声部を書く。
結果としての、生成するポリフォニー
出発点としての定旋律。

もしやるべき音楽がすでにあるなら、
作曲する必要はない。

すでにあるものが充分でないなら、
作曲は、調整して間に合わせるための技術として登場する。


そして、他人の手を理解するためには、
まず自分の手を理解しなければならない。

フィリピンの作曲家にして音楽学者ホセ・マセダが
何年も前に言っていたことがある。
正確な言い回しではないが、このようなことだ。
「一人の名人を百人が聞く。
百人は聞いて、立ち去る。それが限界だ。
一人が百の太鼓をあやつることもできる。
百人が一つずつ太鼓をもつこともできる」
また、
「バッハもモーツァルトも、支配者のために書いた。
音楽で支配関係を表現した。
みんながわずかなものをわけあって生きることを
あらわす音楽はなかった」


★★★★★★★
ところで、技術とはなんだろう。
必要でもないものを買いあさるように躾けられ、
他人を押しのけたものに賞が贈られ、
自己主張が現実認識とまちがわれる社会では、
多く、速く、大きいことが技術の目標になる。
欲望と、不安と、暴力が技術をつくりだす。
それは、見えている以上の細部をもたない粗雑な技術、
部分だけを切り離してつかう技術、
外側から量だけで測られる技術、
体験しないものでも、ことばだけで語ることができる技術だ。

楽器と手が出会うとき、伝統的な技術がはたらきだす。
それがどんなものか知るためには、
手のうごきをちいさく、ゆっくりにしてみればよい。
すると、連続した一つのうごきに見えたものは、
たくさんの細部の組み合わせからできていて、
さらに速度を落とせば、
その細部もまたこまかい要素の複合であることがわかる。
それは、フラクタルのように単純な自己相似形ではない。
細部にかかわる要素は、その全体より大きく、多様だ。
なぜなら、うごいているのは手だけではない。
全身のうごきの統合が手にあらわれているのだ。
究極の、それ以上分解できない要素はない。
分解すればするほど、統合された全体が拡散していく。

このとき、うごきは身体の内側から感じられている。
身体の内側から認識される空間や時間は、
運動と無関係に外部にある空間や時間とはおなじではない。
こうした練習なしには、手のうごきや、
結果としてあらわれる音についての知識は得られない。
それは、ことばで語れない神秘ではない。
それを語ることばは、
体験なしに語られたのとおなじことばでも、
おなじことを意味してはいない。

身体の根拠を欠いた思想は、無知そのものだ。
感覚や論理でとらえた世界は、部分像以上のものではない。
こうして手をうごかしながら一つの音を知ること、
それは部分的な知識ではない。
身体の内側から世界を観ているときは、
そこに見えているのが、世界のすべてでなくてなんだろう。
そこには内も外もなく、観ているものさえもいない。
だが、そこから眼をそらさずに観つづけることは、
生活のなかでは、ほとんどできない。
★★★★★★★★★★

この技法は、獲得するよりは捨てること、
することよりは、しないこと、
つかうことよりは、つかわないこと、
ちかづくよりは、はなれることによっている。
意識がなにもしない状態でいられるだろうか。

まず、呼吸を忘れる瞬間がある。
いったん呼吸を見失ったら、
意識はたちまち糸の切れた凧のように、
どこかへさまよい出ていく。
身体の統合が解体し、
それと同時に音楽のバランスもくずれる。

手の音楽にもどるためには、
イメージや思考から、意識を手にひきもどすことを
たえず思い出さなければならない。
一瞬実現された感触は、
気がつくと、すでに失われている。
実現されたと感じること自体、よけいなことだ。
転落しつづけ、やりなおしつづけるのが、
音楽の演奏のじっさいのありさまで、
わかっていてもできない、あるいは、
わかっているために、かえってできない、
訓練と学習のプロセスが、音楽家の生活というものだ。
それにも限界がある。